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【第15話】
『サラン』
(2007/4/21)


 何気なく目に入った女性週刊誌の表紙を見て驚いた。皇太子ご一家の写真。そこにうちのサランが写っているではないか。「うちのサランによく似た犬」という正解に即座にたどりつかなかったのは、まさか皇太子ご一家がこれほど明らかな柴系の雑種を愛犬として飼っているとは思いもよらなかったからだ。ネットで調べてみると、赤坂御用地に迷い込んだ牝犬が用地内で出産。そのうちの2匹をピッピとマリと名づけて皇太子ご一家が育てているそうだ。いい話じゃないか。

サランがうちに来たのは3年前の5月だった。近所の犬好きな奥さんが市民農園に置かれたダンボール箱の中で鳴いていた4匹の子犬を拾ってきた。1匹のメスが隣の家に引き取られ、2匹のオスと1匹のメスの里親を探していた。「見るだけよ。うちでは飼えないからね」と言いながら3人の息子を連れて見に行った妻・みゆきが一番元気で端正な顔立ちの1匹のオスに一目ぼれしてしまった。それがサランだ。当時、みゆきは「冬ソナ」にはまっていたので、僕が少ない知識をひけらかして「韓国語で《愛》をサランって言うんだ」と教えたら、それを名前にしちゃった。オスなのに《愛》ちゃん。「捨てられて寂しかっただろうから、愛に恵まれるように」だそうだ。

みゆきは高校に入ったお祝いにシェットランドをプレゼントされ、上京した後も山形の実家でお母さんが飼っていたが、僕らが結婚した春に病気で死んだ。もう犬は飼うまいと思っていたが、サランを見たときに「この子はうちの子だ」と運命を感じてしまったのだそうだ。運命なら仕方ない。僕は子供の頃から借家住まいだったので犬を飼ったことがなかった。だから犬との接し方がわからない。友達の家の犬に足をかまれて、「うちの犬はめったに人を噛まないのに」とまるで僕が何か悪いことをしたかのように言われてちょっと傷ついた。大学生のとき家庭教師に行った家についた座敷犬のにおいが苦手だった。「犬は家族と一緒」という考え方に納得がいかなかった。ところが、今じゃサランも我が家の一員です。知らない人が来ると吼えるし、においもします。嫌いな人には申し訳ない。

犬はとにかくにおいを嗅ぐのが好きだ。それも風呂上りの石鹸の匂いなんかじゃなく、遊んで帰ってきた子供や、満員電車に揺られて帰ってきた親父のにおいだ。一日中、ブーツにつっこんでいた足の臭いなんか大好物だ。散歩に行っても、とにかく「嗅ぐ」。それは必ずしも「食」や「性」の予備行為ではなく、「情報収集」のように見える。満員電車の中でも必死に新聞をむさぼり読んでいるサラリーマンに似ている。何かを探しているわけでも調べているのでもなく、まずは読まなきゃ始まらないと言わんばかりに。犬にとっては臭いを嗅ぐという行為自体が命の営みなのである。その一方、人間はどんどん臭いを排除しようとしている。他人の臭いはもちろん自分の臭いも。人間は花でもピコレットでもないから「匂い」は出せない。「臭い」しか出せない。そのことを肯定してくれる数少ない存在が犬だってことだ。

飼いはじめてすぐに「いつ去勢しようか」という話になった。去勢をすることで「よそのメス犬をはらませる危険を防ぐ」「徘徊を防ぐ」「前立腺などの病気を防ぐ」「穏やかな性格になる」など様々のメリットがあり、子供を残すつもりがないなら去勢すべき、というのが一般的な考えだそうだ。人間の為だけでなく、犬の為でもあると。でも、僕は「なんだか可哀想」という感情だけでサランの去勢を先延ばしにして、もう3年になる。使えないチンチンとキンタマなら取ってやったほうがいいのだろうか?犬専門のソープランドってないのか?バカなことを考えていたら、友人の一人が言った。「うちの犬はオレがオナニーしてやっていた」。彼の犬は去勢しないまま老犬となりヒラリヤにやられて大往生した。僕はサランにオナニーもしてやれないまま、男性機能の安楽死を与えることもできずにいる。

「《日本ほど犬と子供がみじめな国はない》と言ったのは椎名誠だった」と野田知佑の著書『カヌー犬・ガク』の中にあった。鳴かない、臭わない、逃げない、ケンカしない、徘徊しない、セックスしない。あらゆる欲望を放棄して初めて愛してもらえる犬たち。それは人間の欲望なのに。親の欲望なのに。犬のあるがまま、子供のあるがままを受け容れてこそ、人間の度量、親の度量ってものが示せると思うのは尊大な勘違い野郎なのか。

行儀よくまじめなんて出来やしなかった

逆らい続け あがき続けた 早く自由になりたかった

うんざりしながら それでも過ごした

ひとつだけ解っていたこと この支配からの卒業

スピーカーから流れる尾崎の歌声に、サランがじっと聴き入っていた。

というのはウソだ。


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