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【第14話】
『やる気MANMAN』
(2007/4/12)


 「やるMAN」こと「吉田照美のやる気MANMAN」が丸20年を迎えた3月一杯で終了した。感慨深い。「やるMAN」には一年ほどお世話になった。1988年だから、番組開始2年目のことだ。

当時、僕はトマホークという放送作家事務所の駆け出し構成作家で、文化放送に出入りしていた。事務所の先輩が「やるMAN」をやっていて、ディレクターの斎藤氏に売り込んでくれた。「こいつ面白いんだよ」って。いきなり「面白い」と紹介されて、その場で何か面白いことをやんないといけなかったので、しまりかけのエレベーターのドアにはさまってすっころんで見せた。それがウケて、斎藤さんからチーフの中根ディレクターに紹介してもらった。「彼、面白いんですよ」って斎藤さんが中根さんに言うから、またエレベーターにはさまって転んだら、中根さんに「採用」って言われて、次の会議に出ることになった。

当時は、長谷川勝士、川勝正幸、加藤芳一といった売れっ子がずらりと顔を揃えていた。最後まで構成を務めた須貝さんも、オナピー山田さんもいた。水曜日の夕方から4~5時間ほど会議をやっていた。テレビの会議では珍しくないが、ラジオで毎週そんな長い会議をやっているのは「やるMAN」くらいだった。

僕の仕事は各曜日の担当作家のサポートだ。各曜日のネタが決まると、そのリサーチやら、取材先の仕込みをする。原稿は書かせてもらえないが、会議のネタは毎週出さないといけない。各曜日の作家が5人、コーナー担当の作家が1人、外回り担当の作家が2人いて、僕を含め3〜4人がネタ出しとサポートで参加していたから10人以上の作家がプレゼンテーションをすることになる。その中から、面白いネタを拾い上げてディレクターと作家があーでもないこーでもないと揉んでは煮詰めていった。そういうのが好きだったんだな、中根さんが。

すぐに終わったけど「わがままクイズ」というコーナーがあった。僕と事務所の同期・宇津木さんがオープンリールのデッキ「デンスケ」とマイクを携えて街を歩き回り、何か面白い音をとってきて、そこからクイズを出題するというもの。別にクイズはどうでもよくて、面白い音をとれるかどうかが肝心だった。いきなり薬局に飛び込んで、「すみません、馬鹿につける薬ありますか?」とかやっていたんだ。やがて、僕は「やるMAN」をやめた。やめたくはなかったが、事務所を移ることになったのが理由だ。一応、文化放送には事務所を通じて入っていた形だったので、仁義を切ったつもりだった。今にして思えばそんな必要はなかったのかもしれないけど。

ラジオで新しい番組を作って、続けていくのは大変だ。テレビみたいに半年で終了って事は滅多にないが、3年やっても5年やっても春と秋には打ち切りの恐怖に怯える。しかし20年もやってる番組となると別だ。ラジオのファンは新番組なんか望んでいない。続けていくのが当たり前で、終わらせる方が勇気がいる。庭の桜の木をバッサリと切り倒す勇気、あるいは、無慈悲。編成の英断か営業の事情か、僕は何も聞いていないので知りません。

文化放送の平日朝昼ワイドで最も古い「寺島尚正ラジオパンチ」「くにまるワイド ごぜんさま」でさえ、この4月で3年目に入ったばかりだ。それぞれの番組が20周年を迎えると、寺島さんは66歳、野村邦丸さんは68歳になる。やるMANに代わって始まる「大竹まこと〜」が20周年となると、大竹まことさんは77歳。ちょっと無理っぽい・・・と思って、「待てよ」と思う。なぜならラジオのリスナーも一緒に歳をとっていくからだ。そして、テレビやインターネットやケータイがあっても、それでも2007年のラジオを愛している彼らに、将来ラジオから離れる理由は見当たらない。ラジオ番組を長く続ける方法。それは終わらせないことだ。でも、終わっちゃうんだろうな。20年の間に必ず番組を終わらせる「勇気ある編成」が出てくるんだ。ジョン・コナーを殺しに来るターミネーターみたいに。


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