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【第3話】
『蟋蟀
(2003/9/20)


 夜11時過ぎ、帰りの外房線の中での話だ。車両の天井あたりをブンブンと虫が飛んでいた。会社帰りの男性が肩のあたりに飛んできた虫をはらいのけ、それは床に落ちた。コオロギ(蟋蟀)だった。吊革につかまっている会社員風は足元のコオロギに気づいていない。「踏まれる」と思った。二つ駅を過ぎて、まだコオロギは無事だった。
しかし、うっかり乗ってしまった電車の中で立往生しているコオロギ、依然としてピンチが続く。次の駅で会社員風が降りると、同じ場所に若い女性が立った。女性のスニーカーがコオロギの2センチ横に来た。どうする、蟋蟀。

8月の末、大変な事件が起きた。2003〜2004シーズンのリーガ・エスパニョーラ独占放送権をWOWOWが獲得したのである。これには伏線があって、WOWOWではここ数年、UEFAチャンピオンズ・リーグを放送してきた。それが2003〜2004から向こう3シーズン、スカイパーフェクTVで放送することに決まったのが今年はじめのことで、WOWOWは、スポーツ・ソフトの大きな柱を失った。WOWOWのスタッフは言葉の端々に悔しさと悲しみをにじませていた。夏の間に多くの海外サッカーファンは、月々2000円のWOWOWを解約してスカパーに一本化しようとしていた。ところが、リーガ・エスパニョーラ開幕の前日、日本時間8月30日午前1時過ぎにWOWOWから届いたメールマガジンで僕は事件を知った。『この度WOWOWは、「スペインサッカー リーガ・エスパニョーラ」の日本国内における独占放送権を獲得致しました!』。

僕は5月までWOWOWのサッカー番組を構成していた。そのときのチーフディレクター、番組制作会社の鈴木さんは、チャンピオンズ・リーグの放送にも長く関わってきた人で、やはりWOWOWのチャンピオンズ・リーグ番組を失い、深く傷ついていた一人だ。鈴木さんにメールを打った。「WOWOWがやりましたね!」。すぐに返
事がきた。「びっくりしました。ゆうべ(金曜の夜)WOWOWから緊急招集があって、その場で打ち合わせをして、明日の(日曜の)朝には生放送です」。この仕事をはじめて16年になるが、そんな急な話は聞いたことがない。

放送作家というのは微妙な立場で、ライバル局の間を行ったり来たりする。そうしないと生きていけないので仕方ないのだが、僕はスカパー!のサッカー番組でもずいぶんお世話になってきた。今もスカパー!200chで放送しているPR番組の仕事で渋谷のスカパー!に出入りしている。「UEFAチャンピオンズリーグ」のPR番組
の構成を任されていたんである。そのスカパー!のPR担当社員でさえ、「リーガ強奪」を知ったのは日曜日のレアル戦生中継が終わった後だったそうだ。かなりショックを受けていた。9月初めまでのテレビ雑誌やスポーツ雑誌では、スカパー!の広告には「チャンピオンズ・リーグ」や「セリエA」とともに「リーガ・エスパニョーラ」と書かれていて、横に(予定)とある。まさか「予定は未定」で終わるとは思いもよらなかっただろう。

陰ではおそらく何十億という大金が動いたはずの「リーガ強奪事件」は、千葉のはずれのちっぽけな我が家にも多大な影響を及ぼした。5月に終わったWOWOWのサッカー番組『ジョン・カビラのフットボール・プラス』は、スタッフも出演者もたいへん気に入っていた番組で、本来なら2003〜2004シーズンも継続していたかもしれないのだが、柱となるチャンピオンズ・リーグを失ったことで放送再開は難しくなっていた。僕は一つ仕事を失った。ところが、リーガ・エスパニョーラを獲得して俄然元気が出てきたWOWOWサッカー班、新しく「リーガ・エクスプレス」という番組を立ち上げることになった。WOWOW物件のスペインとドイツ、二つの「リーガ」のダイジェストを中心に放送しようという番組だ。それがディレクターの鈴木さんを通じて、僕も参加させてもらうことになったのだ。実を言うと、秋からのレギュラー番組も増えずにどうしようかと思っていたところで、マジで助かった。WOWOWの意地が、千葉のはずれのちっぽけな家族を救った。

そんなことを考えていた帰りの電車の中でコオロギを見つけて、「俺みたいだ」と思った。放送の世界の大きな動きの中で、踏まれても踏まれなくても、どっちでもいい存在である俺みたいだ、と。そう思ったらコオロギを生かしたくなった。土気(とけ)に着いたらコオロギをつかんで電車を降り、外に放してやろう。だが、まだ二駅ある。生き残れるのか、蟋蟀。

運のいいコオロギは、土気の駅で僕に拉致されて電車を降りた。土気駅の改札を出ると、ロータリーの横の植え込みで虫が鳴いていた。コオロギの声も聴こえる。僕はその植え込みに向かって右手を突き出し、指を開いた。コオロギは元気よく飛び出して、植え込みの中に消えた。


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