
【第1話】
『難しいほうの澤』
(2003/7/19)
| 僕は個人事業主なのでしばしば領収書をもらうのだが、「お宛名は?」と聞かれたらこう説明する。「チカザワと書いて下さい。トオイ・チカイのチカに、サンズイのサワです」。本当は「近澤」なんだが、「難しいほうのサワです」と言うと、「書いてください」とメモを突き出されるのが面倒なので「近沢」でも善しとしている。 こないだ領収書をもらったとき一つの事件があった。いつものように「サンズイのサワ」まで説明すると、レジの女の子が「簡単なほうのサワですか?難しいほうのサワですか」と聞いてくれた。こういう気が利く人もいる。せっかくなので「難しい方のサワです」と答えたら、出てきた領収書の宛名は「近沢様」だったのだ。僕は考えてしまった。「難しいほうのサワ」が「沢」だったら、「簡単な方のサワ」はどんな字なんだ。それとも彼女にとっては「澤」が「簡単なほうのサワ」なのか。 考えてみれば「澤」はそれほど難しい漢字ではない。他にもっと「難しいほう」の字を持つ苗字がある。「齋」藤さんとか渡「邊」さんとか。齋藤さんの場合は厄介だ。「簡単なほう」の斉藤さんと「難しいほう」の斎藤さんがいて、齋藤さんは「めちゃめちゃ難しいほう」の齋藤さんなのだ。電話口で「めちゃめちゃ難しい」齋をどう説明したらいいのか。知り合いのTVディレクター齋藤さんはいつもこう説明しているという。「はい、真ん中はシメス(示)です。上はブン(文)じゃなくてですね、ナベブタの下に、真ん中にアルファベットのY。その左にカタナ(刀)。右に裏返しのカタナ・・・」。裏返しの刀って何だ。ツバメ返しみたいじゃないか。そもそも齋という字を知らない人にその説明で大丈夫なのか。不安だ。齋藤さんや渡邊さんに生まれなくて良かった。難しいほうの澤なら「サンズイにヨンにサチ」で、大抵の人は「ああ、はいはい」とわかってくれる。 女子サッカーの日本代表に澤穂希(さわ・ほまれ)という選手がいる。難しいほうの澤だ。澤は日テレ(元読売)ベレーザを経て、女子サッカーでは世界最高峰といわれるアメリカのプロリーグ、WUSAの強豪、アトランタ・ビートでプレーしている。先日のFIFA女子ワールドカップ予選プレーオフ、メキシコ戦では先制ゴールを決め、日 本を4大会連続のW杯に導いた。翌日、スポーツ各紙にはこんな見出しがあった。 『沢、先制ヘッド』。新聞では原則として、難しいほうの人名漢字は簡単なほうの当用漢字に直されてしまう。長嶋茂雄は「長島」で、森繁久彌は「久弥」だ。それは構わない。いや、御本人は気に入らないかもしれないけど、僕ならいいんですよ、近沢でも。「近澤」と書くと、「コンドウ(近藤)」と間違えるそそっかしい人もいるし。でも、澤選手の場合は「澤」の一文字が苗字の全部だ。澤と沢じゃ印象が80%(当社比)は違う。だって「島耕作」と「嶋大輔」じゃ、同じシマでも違う苗字でしょう。説得力ないか。僕は苗字に澤を持つ「澤族」の一人として、澤選手にはできるだけ「難しいほうの澤です」とアピールしてほしいと思っている。 |