【第二話 勝負師に勝負をかける】

 小川皓一について語らねばならない時が来たようだ。
 第一話の実松一成にとって佐賀学園高の大先輩にあたる。'87年ドラフト2位でFsに入団、ルーキーイヤーの'88年4月12日、阪急戦で初打席2塁打を含む4打数3安打というド派手なデビュー。本来は内野手だが、俊足の為、外野手も器用にこなし、ユーティリティー・プレーヤーとしてチームになくてはならない存在となる。特筆すべきは勝負強いバッティングだ。ここぞという場面ではフシギと快打を放ち、後に代打の切り札にもなる。'98年、Fsから戦力外通告を受けダイエー・ホークスにテスト入団、翌年、ユニホームを脱いだ。

 いやいやいや、大体そんなところが勝負師・小川皓一のプロフィールですな。
館長、ちょっと今日は文体がカタかったのでちょっと修正。

 絵になるプレーヤーだったのですよ、小川は。
 通好みの、渋い野球人です。

 実は'98年、Fsから戦力外通告を受けた小川を館長は四谷・文化放送第一会議室にて待ち受けてたんですな。選手にとっては非常に微妙な時期です。何をしていいかわからないというのが正直なところでしょう。毎年12月、僕の主催したFs会はシーズンM.I.P.の表彰式という行事をやっていて、その年はヤクルトから移籍の野口捕手が選出されていたんです。
 だけど野口捕手はその年、結婚したばかりでハネムーン等、行事がつまっていた。野球選手の純然たるオフは1年のうち12月の1ヶ月間だけですから大変です。
野口選手の表彰は後日行うこととして、今年は納会だけかなあ、なんてしょんぼりしていたと思って下さい。

 昵懇の間柄の渡辺浩司コーチが「小川を納会に呼びましょう」とアイデアを出してくれた。小川皓一は横浜ベイスターズのテストに落ちて意気消沈している筈だ。プライドの高いアイツのことだから、別口を探すなんてこともせず、おそらくこのままあっさり引退してしまうだろう。声をかけるのは僕がしますからえのきどさん、ひとつ小川を励まして下さい、皆でたきつけて、アイツを引っ込みのつかない形にしましょう。

 渡辺浩司と小川皓一は同時期、同じ左打者ということでライバルでもあった間柄だ。渡辺浩司は持病の腰痛の為、不本意な形でユニホームを脱いだ。納得いくまでやってみたかったという想いがあるのだという。小川がまだやれるのにトコトンやってみないであきらめてしまうのは残念なんだと言うんですな。やれるとこまでやってダメなんだったら「オレはアイツによくやったって拍手しますよ」と。
 
 当日、小川皓一は居酒屋の飲み会のつもりで四谷にやってきたそうです。来てみたらファンにとり囲まれて、マイク前に座らされたんでびっくりしていた。僕は2、3人に「小川をたきつけてくれ」と頼んでいたんだけど、そんな心配は要らなかった。もう次から次へと「どの球団でもいい、野球を続けて下さい」「もし、パリーグの別のチームへ行ったら、小川さんの打席だけはその球団を応援します」「もう一度、打席を見せて下さい」と炎のラブコールが続く。小川は困惑しながらも「ありがとう」を繰り返していた。

 そして彼は九州へ旅立ったのです。
 福岡ダイエー・ホークスのテストを受ける為に。渡辺コーチを通じて「きっかけを与えてもらって、ありがとうございましたと伝えといて下さい」というメッセージを確かに僕は受けとった。
 それから数日後、スポーツ誌の片隅で「小川皓一、ダイエーのテストに合格」というベタ記事を見つけたときは、僕はとびあがって、さっそく渡辺コーチのケータイに電話した。
 勝負師・小川皓一は最も苦しい人生の勝負に勝った。

 で、以上が美談なんですが、今回お見せする「小川のグローブ」は納会のとき、控え室でドロボーしたものです。いや、ドロボーといってもちゃんと断って、「あの、今日、クイズ大会があるんですけど、何かプレゼントしていただける品はお持ちいただきましたか?」「はい、バットとかグローブとか…」「うわ、グローブ、このグローブ…すいません、僕に下さい」「は?」 といういきさつで僕のリュックに大切に保管されたのだった。居合わせた文化放送・水谷アナウンサーが、「げっ、きったねー」と下品な言い方をしていたけれど、博物館員の使命とはこうしたものですよ。後日、神田明神の「勝守」と共にドロボーのおわびと激励の手紙をダイエー球団気付で送ったんですな。

勝負師に一か八かの勝負をかけゲットしたグローブ




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