相手を決めて野球みたいに毎回表裏があって9回終了の形式。
場合によっては延長戦もあるかも?



今回のゲスト対談者はアイスホッケー選手の春名真仁さんです。


2回へ


3回表
 春名真仁様



 全日本選手権はちょっと無理そうです。考えたら2泊3日くらいで楽勝行って来れるのに、札幌って心理的に遠いですね。僕はBucksの試合、ビジターゲームは東伏見と新横浜と、あとソウルしか行ったことがない。これはちょっと変な話ですね。クワッドシティは行く気満々、ソウルはへっちゃらなのに北海道は遠いと感じる。

 春名君の故郷・釧路、村井忠寛や土田英二の故郷・苫小牧、チャンスがあったらホッケー観戦旅行に出かけようと思ったまま、なかなか根性が出ない。ちょっとビビリなんですかねぇ、釧路空港、霧が出ると女満別に降ろされたりするでしょう。まぁ、だけどファイターズの本拠地移転で北海道とはこれから縁が切れそうもない。必ず釧路も苫小牧もいつの日か見に行こうと思います。

 3回の表はゴーリーのスキル編へ進もうかと思ったけど、釧路にします。「春名真仁選手のできるまで」を教えて下さい。御存知の通り、僕は春採湖の近くで少年時代を過ごしていて、ひぶな幼稚園→柏木小学校というコースで義務教育期間をスタートしました。

 釧路は今でもときどき夢に見るくらい思い出深い町です。スケート覚えたのは春採湖の天然の氷だし、柏木小は冬になると校庭に氷を張って「冬季スケート運動会」みたいなことをしていた。僕はオールスター・サタデーのスキルコンペティションを見るといつもスケート運動会を思い出します。

 「ぬさまい橋」の近くにヤマハ音楽教室があって、何だか知らないけど僕はそこでオルガンを習ってた。その行き帰り急な坂道の途中にある図書館に寄って本を借りた。今、音楽や本が大好きで、どうかすると仕事になってたりする原点は、「ぬさまい橋」の辺りにあるのかも知れないなぁ。

 春名君は試合前やなんか自家中毒って書いてたけど、どんな少年でしたか? オレ、あそこの図書館に自分の本が収蔵されてるって誰かに教えられて、何か生きてきて良かったなぁと泣きそうになりましたよ。

えのきどいちろう


P.S. 実は知り合った頃、「春名」って名前は「春採湖」のハルだなぁと思ったんだ。ところで君は土田君みたいな同級生からは「ハルピン」だけど、村井君からは「ハルさん」って呼ばれてたろ? 『プライド』の主人公、木村拓哉の役名が「里中ハル」っていうんだ。村井君はドラマで「ハルさん」が出る度、どっかで聞いたなぁって生きた心地がしないらしい(笑)。





 えのきどいちろう



3回裏
 えのきどいちろう様



 全日本選手権3位だったみたいですね。村井からえのきどさんが観れなくて残念がってたと聞きました。村井には暇だと文章も長いねーとも言われましたが確かに読み返すと長いですね。最後まで読むのが辛いぐらい。昔から作文は苦手でして、、すみません今日もお付き合いください。

釧路空港は誘導装置がついて今では霧でも降りることができます。僕も一度霧の中で降りましたが外は真っ白でまだ雲の中だなーなんて思っていたら突然ドスンと着陸して冷や汗をかきました。確かに北海道は遠いですけどたぶん冬は霧も出ないと思いますし。ぜひ一度我が家を訪ねてください。

えのきどさんが釧路に住んでたことがあって古河ファンだというのを知ったのはたぶんNAVIのザンボニ(製氷車)に乗ってるコラムからです。自分にも係わることが記事の中にあって嬉しい反面、こんなメジャーな雑誌で古河ジャージとかザンボで大丈夫かなとちょっと心配になったものです。その時はまさかこうしてお知り合いになれるとは思いませんでしたけど。
えのきどさんは子供の頃いろいろな町を転々となさったと聞いたことがありますが、僕は生まれも育ちも釧路です。ちなみに僕のコースは新富士保育園→鳥取西小学校→鶴野小学校(二年生以降)→鳥取西中学校→湖陵高校です。
実を言うと進学する度にホッケーを続けるか迷ってて、ましてや将来ホッケー選手になりたいと思ったこともなかったです。そんな自信も実力もなかったですし。「エンジニアになる!」と意味もよく分からずに言ってました。そんなでしたから親にも友達にも「アメリカ行く程お前ホッケー好きだったの?」と言われます。

ホッケーを本格的に始めたのは小学一年生かな?自分からやりたいと言ったらしいのですが無理矢理やらされてたような記憶が。鶴野小ではホッケー部にも入ってましたが、そこで始めたサッカーにハマってどちらかというとサッカー中心でした。部屋はマラドーナ(バルサ時代)のポスターだったし、いまだに僕のヒーローはグレツキーよりディエゴです。釧路はテレ東系列がないので監督が取り寄せた三菱ダイヤモンドサッカーのビデオを観るのが楽しみでしたね。
冬はえのきどさんもご存じの通り学校の校庭がリンクになるので防具バッグを載せたソリを引いて登校してました。ずっとGKをやりたかったのですがなかなか親の許しが貰えなくて GKを始めたのは5年生になってからです。先生にも頼んで親を説得してもらいました。それまではDFでしたが足も遅くて下手くそだったのでホッケーが本当に面白くなったのはGKになってからです。自家中毒にかかってたのはこの頃で、絶対負けられないとと自分にかなりプレッシャーをかけてましたね。メンタルコントロールなんて全然できませんでしたから。

中学に入ると部活が一つしか選択できなくて(←日本のスポーツの問題点だと思います)サッカーと迷ったのですが結局まわりがホッケーを続けるというのとサッカー部が弱いということもあってホッケーに落ち着きました。当時では珍しく専属GKコーチの小山さん(元十条)という方がいてみっちりスケーティングの基礎を教わることができたのは幸運だったと思います。力もついてくる中学生くらいがスケーティングのスキルを習得するのに最も重要な時期ではないでしょうか。ちなみにヘッドコーチは前クレインズ監督の沢崎さんでした。そして学校の部活とは別に十条Jr.(現クレインズJr.?)というJリーグのユースのようなクラブチームにも入ってました。釧路出身の日本リーグ選手は部活とJr.の両方に参加してる人が多いと思います。中3の釧路選抜ではじめて飛行機に乗って東京に行った時は安直ですけど「ホッケーやってて良かった」って思いましたね。「こ、これが竹下通りか。。なまら人いる。」ってカルチャーショックでした。今でも代表で北欧とか行くとホッケーやってなきゃなかなか来れないよなとか考えてますけど。そういえばコペンハーゲンに行った時に橋本三千雄(当時雪印)を無理矢理連れて有名建築家の設計したホテルに行ったことがありました。まったく進歩がありません。

高校でもホッケー続けるか迷いました。サッカーにも未練があったし他のこともやってみたいと思ってたのですが、結局この時も他の中学から来た選手に誘われて決めた記憶があります。湖陵は選手の数も少なくて決して強くはないのですが上下関係も良くて、練習も選手の自主性に任せられていて楽しかったですね。高3の時には市内4位のチームがクジ運の助けもあって日光開催のインターハイで3位になったのですがその準決勝の会場が霧降アリーナのこけら落としだったんですよ。まさかその時はホームリンクになることも日光に住むようになることも夢にも思わなかったです。

えのきどさんの記憶にある坂は出世坂といって僕のいたときの湖陵高校は坂を登った先にありました。その坂を使う旧制釧路中学校(湖陵の前身)の学生がのちのち出世するから出世坂らしいですが定かではありません。僕も1、2年生のときは出世坂を登って学校に通ってましたが二年の途中で全然違う場所に新校舎が移って通らなくなりました。坂の途中の図書館では本は読まないけどたまにテスト勉強で利用するくらいでした。
えのきどさんのケースとは少し違いますが湖陵の玄関ロビーには僕のサインスティックがあったらしいです。湖陵卒のスポーツ選手が珍しいってこともありますけど、釧路工業とか緑が丘がそんなことしたら玄関がスティックだらけでしょうから。でもちょっと嬉しかったです。

なんだかまたダラダラと書いてしまいましたが結局のところなんだか僕はホッケーがとても好きなようです。というよりGKが好きなんですけど。えのきどさんはライター以外になりたかった職業ってありますか?たまに僕はもしあそこでやめてたらどんな風になってるかななんて考えたりはしますが、たぶんやめてたら今頃プライド見て後悔してるかもしれません。
また今回もハルさん長いよって言われそうです。3回の裏でした。





 春名 真仁


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