今までの
第一回戦
| 第一回戦のゲスト対談者は『子どもプラス』(雲母書房)編集者の平野勝敏さんです。 |
| 「昭和の匂いはいつのまにか消えてしまった」という平野さんのメールが届いて、数日の間に皇太后と竹下元首相が亡くなりました。ミレニアムなんて言ってても全然実感がないけれど、本当にひとつの時代が終わっていくんですね。 こないだの「いい人」「気難しい変人」の話は面白かったです。僕も昔、人間はどうして「いい人」になったり、「いい人」をやったりするんだろうと考えたことがあります。他人に好感を持ってもらおうとか、親切とか、何故そういうことを大事にするのだろう。「嫌なやつ」「気難しい変人」になる自由は憲法で(たぶん)保証されてると思うんです。 これは社会性の問題ですね。 社会は一人では立ち行かないから、エゴを抑えて協力していこうというアイデアです。 この「エゴを抑えて」の部分が僕にとってはずっと問題で、まあ、字句通りのエゴは抑えた方がいいに違いないんだけど、まあ、ちょっと人と違ったことをすると「変わったやつ」→「普通じゃないやつ」→「めんどくさいやつ」→「嫌なやつ」という風になってくんですよ。まあ、子供の頃、転校した先で標準語をしゃべってたというだけで、そういうことになったり、教室で人の知らない本読んでただけでそういうことになったり、いや、けっこう大変な目にあいました。その後「イジメ」という言葉が出来て一般化されたけれど、司馬遼太郎の『菜の花の沖』などを読むと江戸時代には少なくともあった日本の風土病ですね。 今でこそ他人と違ったことを思いついたり、考えたりするのが、僕の生業になっているけれど、ずっと嫌な思いをしてきたんですよ。簡単な話、野球は日ハムが好きだというそれだけのことが、すーっと通ったためしがない。世間の考え方というのは大体、「みんな巨人が好きなのに何でそんなめんどくさいこと言うんだ」みたいなもので、学校の先生にそういう人多かったなあ。 平野さん、僕はどんなに明朗に見えても「気難しい変人」の陣営なんですよ。 「いい人」になるのは弱いからだ、と確か中学生くらいの頃、考えたんですよ。歴史上の独裁者はよくわかんないけど「いい人」である必要はなかったんじゃないか。まあ、自分の良心の声とか宗教上の問題みたいなことがありはするだろうけど、ヒトラーとかスターリンとか、猛烈に権力が集中していれば、一生の間、「いい人」やんないで済ますケースも出てくるだろうなあと考えたんです。 今の頭で考えると半分当たってるけど、半分ハズれてますね。「他人の為の自分」を獲得していく内実が、子供の頃は見えていなかった。社会性を身につけていくことは中学生が考えるようなくだらないことじゃない。 だけど「弱いからだ」という決めつけは一面の真理をついてるとこもある。この社会では「他人の為の自分」が「その他大勢であるような自分」にたやすく反転します。ここ数年、CDのメガヒットが話題になっているけれど、あれはもはやそのアーティストのことを好きじゃない人まで買わないと達成できる数字じゃない。 よっぽど横並びで目立たないようにしていないと不安なんだと思います。日本の風土病をメディアがハイパー化したようなかんじです。 あと、今年の1月、コピーライターの仲畑貴志さんと対談する機会があったんですが、仲畑さんが実に面白い言い方をしてました。 「最近のCMはみんなカワイイをアピールする仕組みになっている。新製品も企業も、皆、カワイイでしょ、と同じことを言っている。カワイイっていうのは、赤ちゃんとか、とりあえず攻撃されないから」 そのときはその流れで亡くなった小渕元首相の「ブッチホン」を俎上に上げたはずです。 10年くらい前だったら「カワイイ」のファクターが、「面白い」だった気がしますね。CMがウケ狙いばかりでホントうるさかった。CMづくりっていうのは「他人に好感を持たれたい」「他人の為の自分」の最前線ですから、色んな手で「いい人」ぶるわけで実に興味深いですね。 えのきどいちろう |
| やはり、そうでしたか。えのきどさんは「気難しい変人」ではないかと睨んでいたんです、僕は。困ったことに、「気難しい変人」に限っていい原稿を書いてくれることが多いんですよね。 前回のメールで「他人の為の自分」には、考えさせられました。 うまいこと言うなあ、えのきどさんは。 「他人の為の自分」と表裏一体である「その他大勢であるような自分」が蔓延してるんだなあ、とつくづく感じます。 ただ、今回は「その他大勢であるような自分」に反転する「他人の為の自分」は、ちょっと置いておきます。それから、「他人の為の自分」100%の人もこのさい、横に置かせてください。これは宗教だとか、神だとかの領域になるような気がしますから、いまの僕の手には負えないな。 僕が、興味があるのは「その他大勢であるような自分」ともちょっと違う「他人の為の自分」をやっている人たちなんです。 CMは、たしかに「他人の為の自分」の最前線ですが、これは「金もうけ」というはっきりした目的があるので、ま、それはそれでしょう。 気になっているのは、個人がなにゆえに度を越した「他人の為の自分」である「いい人」をやるかということなんです。僕なりの考えですが、 自分が傷つくのがいやだから、です。 「いい人」でいて「いい関係」を保っていきたい、ということではないのかなあ。気まずい思いをして自分が傷つくのはいやなんですよ、きっと。いったんこわれた関係を修復するのはかなりの労力を必要とします。めんどうともいえます。だからあらかじめこわれないようにする。こわれないことに力点をおくためには、「いい人」でいることがいちばん、ということでしょうか。結局は「自分の為の自分」なんですよね。 これは、最近の家族でもいえることですね。「気難しい」おやじが減ってきていること、ものわかりのいい親が増えていることをみてもあきらかです。 考えてみれば、閉じていますよね、この感じ。「いい人」の中にみんな閉じこもっている。僕もそうかもしれないなあ。閉じていれば、とりあえずは傷つかなくてすむんですから。 話は思いきりとびますが、えのきどさんが「意気揚々」でいつか言っていたでしょう。 君がごはんつぶを好きになれば、ごはんつぶも君を好きになる。 これ、僕好きなんですよね。このことはいつか言いたいと思っていたんです。すべてにあてはまる定義ではないかもしれないけど、真理の一般化とはこういうことだと思いました。えのきど語録というのがあれば、その中に加えてほしいな。 そうだ、「えのきどットコム」でえのきど語録というのをつくってもらえませんか。みんなから募集して、えのきどさんの独断で採用するというのもいいと思います。 今日は、そんなところです。 平野勝敏 |